Section. 創立45周年に寄せて

ベストリビング株式会社は、創立45周年記念事業の一環として、2025年10月に特別対談を開催しました。ゲストにお迎えしたのは、「椅子の神様」の異名を持ち、日本で初めて“家具モデラー”を名乗った第一人者であり、長年にわたり深い敬意を集めてきた椅子張り職人、五反田製作所 代表取締役 宮本茂紀氏です。


1937年、静岡県伊東市で育った宮本氏は、15歳で家具職人としての道を歩み始め、全国各地の工房で腕を磨いてきました。その後、さらなる探求を求めてヨーロッパへ渡り、“家具モデラー”という新たな職能と出会います。帰国後、日本で初めてその名を掲げた存在として、長きにわたり家具づくりの可能性を広げてきた人物です。


迎賓館・明治村の椅子の修復、新幹線シートの開発、カッシーナをはじめとする海外ブランドのプロトタイプ制作など、国内外の現場で“図面の向こう側”を形にする役割を担い続けてきました。現在は名工(卓越技能者)としても認定され、教育・後進育成にも尽力されています。


インテリア専門誌『室内』
インテリア専門誌『室内』

ベストリビング代表の中村広樹も、学生時代にインテリア専門誌『室内』で宮本氏の特集を読み、「職人という生き方」の魅力に強い衝撃を受けた一人です。その憧れが、自らのものづくりの原点になったと語っています。


今回の対談テーマは「職人としての生き方」。
時代が変わっても変わらない“手の仕事”への想いと、ものづくりの奥深さや楽しさを語り合う時間となりました。


Section. 職人としての原点

宮本さんは、静岡県伊東市の漁港で育ちました。漁師や外国航路に乗る人が身近にいる環境で、幼い頃から「海外」や「外の世界」への憧れが自然と育まれていったといいます。

「考え方の基本はね、外へ向かっていたんです。15歳のとき、親方に“世界をまたにかける職人になります”って宣言したんですよ。」


その“宣言”の相手は、中学時代の先生の父親であり、椅子職人の親方でした。当時の宮本少年は、「半年くらいで親方を追い越せる」と本気で思っていたそうです。


15歳で始まった徒弟生活は過酷そのものでした。日中はリヤカーを引いて回り、雑用をこなし、同じ作業を黙々と繰り返す毎日。それでも宮本さんは「この時代を乗り切れば、いち早く一本立ちできる」と信じ、あらゆる経験を“自分を試す時間”として前向きに受け止めていたと語ります。


この頃すでに、宮本さんは“職人とは何か”という問いが芽生えていました。
 「職人は、言われたことをやる人じゃない。その時代の世の中が必要としているものを、必要な時にできる人。それが職人だと思うんです。」

この「職人観」は、後に60年以上のキャリアを歩む中で、一度も揺らぐことがありませんでした。


徒弟として丸三年が経った頃、宮本さんは親方に、工場設備の改善や弟弟子の採用など、「5箇条の要求」を突きつけます。結果として親方の元を離れ、18歳で“渡り職人”としての道を歩み始めることになりました。


22歳の頃には、大型プロジェクトで30名近い職人をまとめる役割を任されます。高島屋を拠点に働きながら、オリンピック以降の都市開発やイタリアモダン家具の流入など、大きく変化する時代の空気を、肌で感じながら仕事に向き合っていました。


北海道の大島木材工芸に派遣されていた頃には、「自分はいつまで渡り職人でいるのか」「新しいものをつくりたい」という思いが強くなり、31歳で独立を決意。13年間の渡り職人生活に、ひとつの区切りをつけました。


「迷っている時間こそ、すごく大事なんです。答えがひとつということは、ほとんどない。諦めないで迷い続けること。それが仕事なんですよ。」

海外への憧れ、自分で道を切り開く覚悟、そして迷いを恐れない姿勢。こうした経験の積み重ねが、宮本さんの“原点”を確かなものにしていきました。


Section. 家具モデラーとの出会い—“図面の向こう側”をつくる仕事

独立後も、宮本さんは現場を駆け続けました。天然素材からウレタンフォームへと素材が大きく転換し、海外ブランドの家具が次々と日本に上陸し始めた時代です。


転機となったのは、1973年のヨーロッパ研修でした。そこで出会ったのが、日本にはまだ存在していなかった“家具モデラー”という職能です。


ヨーロッパの工場では、デザイナーから渡されるのは几帳面な設計図ではなく、漫画のようなラフスケッチ一枚だけということも珍しくありませんでした。「イタリアなんてね、図面なんか出てこない。“こういう雰囲気の椅子にしたい”って、そのイメージだけ渡される世界なんですよ。」


そのイメージから、座り心地、構造、量産性、強度、細かなディテールまでをまとめ上げ、実際の“形”へと導くのが家具モデラーの役割です。言われたとおりに作るのではなく、図面の“向こう側”にある意図を読み取り、実現する仕事。その奥深さに、宮本さんは強く心を動かされました。


アルフレックスの工場に入り、技術も言葉も分からないまま怒られつつ覚えた日々。
続いてスウェーデン、ドイツの工場にも派遣され、試作・開発の最前線に身を置きました。海外ブランドが日本に進出しはじめたこの時期、宮本さんは多くのプロトタイプ制作に携わっていきます。


空気を抜いて圧縮し、袋から出すと膨らむ椅子「UP(アップ)」や、世界的名作ソファ「マラルンガ」の開発にも立ち会い、ブランド側とキャッチボールをしながら、試作と調整を重ねていきました。


カッシーナから「この椅子を、宮本が良くしてくれ」と任された際には、馬具工場へ研修に入り、革やキャンバスの扱いを一から学び直したといいます。ひとつの椅子のために異業種の技術までも取りに行く—その貪欲さこそが宮本さんらしさでした。


もちろん、その過程に失敗はつきものです。蛍光灯をあしらった椅子の制作では、熱でクッション材が溶けてしまったこともありました。「やってみないと答えが出ない。不確かなことに手をつけないと、一生わからないままなんです。」


1983年7月、宮本さんはついに「自分は家具モデラーだ」と世間に宣言します。
当時の日本には存在しない肩書きでしたが、
 「期待以上のものをつくりたい。図面の向こう側に何があるのか、いつも知りたかった。ある種の好奇心ですよ。」
と、その理由を飾らずに語ってくれました。


Section. こだわりと商売のはざま—現場で磨かれていく判断

職人として技術を積み重ねながら、宮本さんは「こだわり」と「商売」のはざまに向き合い続けてきました。

「こだわりと商売は、比例するものじゃない。でもどちらも捨てられない。その間で、何を選ぶかなんです。」


その姿勢を象徴するのが、迎賓館・図書室の修復プロジェクトです。当初予定されていた漆仕上げがどうしても乾燥に間に合わず、このままでは検査も通らない—そんな緊迫した状況でした。


宮本さんは、従来のやり方をいったん手放し、ウレタンで下地をつくり、金箔を貼るという新しい工法へ切り替えます。彫刻部分の溝が深く金箔が切れてしまう問題には、先に金粉で色を作り、その上に金箔を重ねる工夫で応えました。仕上がりは見事で、いまもその部分は迎賓館に残っています。


「伝統を否定したわけじゃない。あの場をちゃんと収めるために、やり方を変えたんです。こだわりを通すために、こだわり方を変えるんですよ。」


アルフレックスやカッシーナなど海外ブランドとの仕事でも、求められるのは「図面の通りにつくる職人」ではありませんでした。“期待以上のものをつくる人”。そこに宮本さんの仕事観が重なります。


「原点は、やりたいか・やりたくないか。そこが自分の基準なんです。」
ビジネスの合理性だけでなく、「やってみたい」という感覚に正直であること。いたずら心やワクワクを忘れずに、時代に求めるものを読み取りながら、自分の手で新しい答えを探し続ける—。宮本さんは、そんな姿勢で「家具モデラー」という道を切り開いてきました。


そしていま、宮本さんは新しい挑戦に取り組んでいます。
最近の関心は、家具をもっと気軽に楽しめるようにすること。

張り替えるのではなく、洋服のように“着せ替える”という発想で、ソファや椅子の表情をもっと自由に変えられないか—。そんな思いから生まれたのが、「着る・羽織る」という概念を取り入れた家具のアイデアです。


季節や気分に合わせてソファの表情を変えられる。暮らしの中に“変化”と“楽しさ”を持ち込める。そんな新しい使い方を探ろうとしています。


現在は、展示会に参加しながら 実際に反応を見ているところ。家具を“着こなす”という、新しい楽しみ方の可能性を探っている真っ最中です。


Section. 若い職人へ伝えたいこと

宮本さんに、最後に“若い職人へのメッセージ”をお願いしました。


長く現場に立ち続けてきた経験から生まれる言葉は、これからこの道を歩む人たちへのあたたかなエールであり、未来へ向けた指針でもあります。


ベストリビング代表の中村広樹が「九州の職人たちにも、宮本さんの言葉を直接届けたい」と語ったように、この日に語られた内容は、これからの職人を支える“芯”のようなものでした。


「将来どういう夢を持っているのか。地域的なことは、もう関係ありません。」

静岡の漁港で外国航路の話を聞きながら育った自身の経験を踏まえ、宮本さんは、“世界とつながる感覚”を忘れないでほしいと伝えます。
今は世界の情報や名作にすぐ触れられる時代。だからこそ、視野を狭めないことが大切だといいます。


そして、若い職人に最も伝えたかったのは、“答えは一つではない”という姿勢でした。「実際に作りながら、検証しながら答えを探すことが大事。やってみて、失敗して、そこから次が生まれるんです。」
試作を重ねる中で生まれる気づきは、その後の仕事に必ず生きる。宮本さん自身、迎賓館や海外ブランドとの経験すべてが、“やって確かめたこと”の積み重ねでした。


さらに宮本さんは、過去の技術や歴史に深い敬意を払いながらも、こう続けます。「過去に囚われなくていいんです。“それはそれでいいじゃないか”と受け入れればいい。今のやり方をやっている人は、すごいよね。」


大切なのは、固まってしまわないこと。素材も工場の環境もニーズも変わり続ける中で、過去を尊重しつつ未来を積極的に受け入れる柔らかさが必要だと語りました。


Section. バトンは次の世代へ—受け継がれる「職人という生き方」

ベストリビング代表の中村広樹が口にした言葉があります。「宮本さんは、僕のアイドルなんです。」


学生時代、雑誌『室内』で初めて宮本さんの特集を読み、“職人という生き方”に心を打たれた原体験。長い年月を経て、今こうして同じテーブルで対談する日を迎えたその言葉には、特別な意味がこもっています。


「九州の職人にも、この想いや姿勢をしっかり伝えたい。」

今回の特別対談は、その思いを形にした場でもありました。


ベストリビングはこれからも、“無いものは創る”企業として、宮本さんから受け取った想いを、次の世代へ丁寧につないで私たちらしいものづくりを続けていきます。


いつまでも追い続けます。
いつまでも追い続けます。

Section. 当日の対談の様子はこちら

ベストリビング創業45周年記念事業「椅子の神様」宮本茂紀氏 特別対談第1部「職人としての原点」

ベストリビング創業45周年記念事業「椅子の神様」宮本茂紀氏 特別対談第2部「拘りと商売のはざま」「ソファ職人としての現在地」「若い職人に求めたいこと」